お寺日記

平成24年 12月下旬

2012年12月31日(月)
除夜のお勤めにお参り下さい!!

やっと、準備が整いました。

下の写真、大きな果物でしょう!?

熊本の友人が送ってくれた、名産の「ばんぺいゆ」です。お供えさせてもらいました。

大晦日の最後の最後までバタバタでした。

でも、こんな忙しさがあってこそ、新年の喜びもあるんだなとしみじみ感じています。

皆さん、来年もよろしくお願いいたします!

合掌 (悠水)

2012年12月30日(日)
除夜会の準備
明日の除夜会の準備ができました。

本堂のお花は松、葉牡丹、なんてんです。

そして、万年青を活けました。
とても時間がかかりましたが、何とかできたので
ホッとしました。

お正月らしくなりました。

明日は雨が上がるといいですね。
               (西神支坊若坊守)
2012年12月28日(金)
ごま豆腐
寒い日が続いております。
皆様、大掃除やお正月の準備でお忙しいことと思います。

今日はいつもお世話になっている門信徒の方に
ごま豆腐の作り方を教えていただきました!!

練りごま、水、片栗粉と材料はシンプルです。
大変なのはこの材料を火にかけながら、混ぜる行程です。
とにかく手を休めずひたすら混ぜます。
粘りもあるので結構な力仕事です!!
先生のおかげでプルプルのきれいなごま豆腐が
完成しました。
お忙しい中、ありがとうございました。

ごま豆腐は永代経法要でのお齋にも入っているので
作れるように頑張ります!!
                  (西神支坊若坊守)
2012年12月26日(水)
「アナザープラネット」見ました!!
もう一つ、同じ地球が現れる。すべてが同じ。もう一人の自分がそこに居ることも・・・。

この展開、SF映画好きの私にはたまりません!
クラクラするぐらい、最高です!

前途洋々な少女が、ちょっとした気のゆるみで重大な罪を犯してしまいます。
少女は、出所後に罪を償うために被害者の遺族に素性を隠し、
有償のハウスキーパーと偽ってその実、無償の奉仕をし続けます。
罪悪感は償えば消えるのか。果たして償うということ自体可能なのか。重厚なテーマです。
この内容だけだと、よくある筋のヒューマンドラマなのですが、
このテーマにSF要素がプラスされています。
これがたまらない!!。

(以下は、物語の核心に触れています。未見のかたは、ご遠慮を!)

少女は、償いの日々の中、もう一つの地球に望みをかけます。
あそこなら、もう一度セカンドチャンスがつかめるかもしれない・・・・。
宇宙船で到達しなければ行けない距離なので、確たることはつかめず、第二の地球について様々な憶測が飛び交います。
そんな中で、第二の地球、アナザープラネット(原題はアナザーアース)に向かう宇宙船乗組員(若干名)の公募で選出された彼女は旅立ちを決意します・・・。

最後までの筋は敢えて書きません。ラストを見終わった時、しばし固まってしまいました。
重厚で安易に描けないテーマにもかかわらず、いつの間にか許し許される、償い償われるという安易なハッピーエンドを落ち着きどころに望んでいた私に、痛棒が与えられたからです。しかし、これを書いている今、重いテーマに相応しい終幕だったとしみじみ思います。そして、納得しました。

今の自分に向き合うこと。それは、宇宙の遙か彼方に向かうよりも難しいのです。

どれだけ償ったつもりでいても、今現在の自分に向き合うことがなければそれは逃避なのではないでしょうか。

過去を消すことはできません。現在の自分は過去の自分の延長上にあるから。過去を消そうと償うのは逃避なのかもしれません。被害者の遺族男性に、第二の地球行きチケットを渡したのは、被害者男性に家族を取り戻させるとともに、自分の過去を消して元通りの人生にしたかったからなのではないでしょうか。償いと言いつつ、その実、単に過去の事実を消そうとしたともいえます。そうではなく、過去の事実は変えられないけれど、過去の意味を変えたい。その試みにこそ、今の自分、今の人生を逃避なく生きていけるのでしょう。

また、いたずらに未来を願うことも逃避なのでしょう。あの宇宙の彼方に行けば、きっと違う自分になれる、もっと幸せな人生がある。こう考えることは、単なる問題の先延ばしという意味で逃避でしょう。今ここで自分とはどんな罪や悪を抱えた生き物であるのかを考えなければ、真に安心できる人生はないのでしょう。

罪を犯してしまった(罪を背負って生きざるを得ない)自分が生きていく居場所は、自分が両足で踏みしめている今ここにしかない。けれども、自分は今ここで生きていけない。なぜなら、自分を許して包み込んでくれる人が、何かがないから。己と向き合い己を恥じて苦しむ老人に「自分を許して」とアドバイスはできても、肝心の自分が自分を許せていない。宇宙飛行士の話を引き合いに出し、雑音を愛せとアドバイスできても、自分の心に鳴り響いているはずの雑音を愛せない。罪を、悪を抱えた生き物そのものである自分を許すことも、愛することも出来ない悲哀が主人公に感じられます。

過去に、未来に逃避してハッピーエンドになったと錯覚した主人公に、厳しい現実が最後のワンシーンで突きつけられます。今の自分からは決して逃れられないんだよ、と。

ここで、ふと考えます。今の自分と向き合うこと。果たして当の私はできているだろうか。

法的な意味での罪ということに限らず、私という人間は人に少なからず迷惑をかけ、堪忍してもらって生きているのでしょう。数え切れないほどの罪、悪を抱えざるを得ないのが私です。その私ということを知っていながら、仏様は「あなたに生きて欲しい。生きるあなたそのままを何より大事に思っているよ」と願って下さっています。仏様が、居場所になって下さっているのです。仏様のおかげで自分に向き合わせてもらうとき、目をそらしそうになる、いや少なからず目をそらすのが私です。しかし、光によって闇が破られるように、日常の合間合間に否が応でも自分の暗部は繰り返し繰り返し明らかになります。むさぼり、怒り、おごり、ねたみ・・・。まるで顔を覆った両手の隙間から、鏡をおそるおそる垣間みるような思いで明らかになった自分を見るとき、この私を受け止めて下さるお方が、仏様が居て下さって良かった、と思うのです。過去の過ちは、恥ずかしさは、今仏様に出あわせていただくためのご縁であった。そう思い至ってこそ、過去の意味は苦しみから安らぎへと転換されていきます。映画の主人公には、最終的に彼女の過去の苦しい事実を、安らぎの意味へと転換する存在は終になかったのでしょう(被害者の男性は、チケットを受け取って償いは一部受け入れたようにも見えますが、彼女を受け止める愛情のパートナー、居場所としての役割は最終的に拒否していますから)。

自分と向き合うことは、自分を受け止めてくれる存在無しには不可能である。

ラストシーンをもう一度思い出して、その結論に納得するのです。 (悠水)
2012年12月19日(水)
落ち葉
今日も一段と寒くなりましたね。
秋からこの時期まで続く落ち葉ももう終わりのようです。
私たちにとっては助かります。

4歳の娘は葉っぱがなくなっていくのが、
心配のようです。
葉っぱさんは何処へ行くのかな?
もう出てこないの?
と寂しそうにしています。

下の写真は娘が作ってくれた落ち葉とドングリのパフェだそうです。
一生懸命拾ってましたよ。
一つ一つ大事そうに集めている姿や子供の優しい言葉にホッとしますね。(西神支坊坊守)
2012年12月18日(火)
大きな柿!

中庭の柿の木に大きな柿がなりました。

マッチ棒と比較すると、こんなに大きい!

早速、お供えさせていただきました。

品種は、甘柿で「小春」というそうです。(悠水)